お彼岸を簡単に説明します。
概略
春分の日と前3日・後3日を合わせた7日間、秋分の日と前3日・後3日を合わせた7日間、この期間を彼岸と呼びます。お彼岸の期間に行う行事を彼岸会(ひがんえ)といいます。
彼岸会の意義とは、日頃の自分を見直し、仏道修行することです。
分かりやすい仏道修行の一環として、現在では先祖供養を行う慣習になっています。
起源
お釈迦さまが使っていた言葉であるサンスクリット語のPāramitā パーラミター、お経の言葉では「波羅蜜(はらみつ)」が語源とされています。意味は、「至彼岸(とうひがん)」。「かの岸に至る」つまり、あっちの岸に至るということです。彼岸に対して、こっちの岸を「此岸(しがん)」といいます。つまり、
こっちの迷い苦しみの世界から、あっち側の悟りの世界に行く
ということです。ですから、お彼岸の期間は気候もいいし、この期間に波羅蜜の修行をして、仏道修行をしましょうというのが、本来の意義なんでしょうね。
波羅蜜の修行とは、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・禅定(ぜんじょう)・精進(しょうじん)・智慧(ちえ)の六波羅蜜(ろくはらみつ)が連想されますが、長くなるので別の機会にご説明します。
ちなみに、こっちの岸とか、あっちの岸なんていうと、「三途の川」を連想しそうですが、無関係です。また、浄土思想との関連もおそらく無関係だと思います。
サンスクリット語が由来とされていますが、インド・ネパール・中国・朝鮮半島には、お彼岸という行事はないようです(一部、似たような風習もあるようですが、詳しい方がいらっしゃったら教えてください)。少なくとも「彼岸会」とは日本固有の仏教行事と考えてよさそうです。
古くは、平安時代に天皇家で彼岸会を奉修されたようですが、広く一般に浸透し、現在のような「お墓参りの日」になったのは、おそらくかなり最近のことだろうと思います。ですから、難しいことを考えず、「自分を見つめなおし仏道修行をする日」としていいと思います。
中道とは「相即」。すべてを含んでいるということ
ここからは、ちょっと深読みです。読みたい人だけどうぞ^^
お彼岸の意義は、前述したとおりなのですが、ではなぜ、この期間が尊いとされているのでしょう?
お彼岸の期間は、昼と夜との時間が同じで、暑くもなく寒くもない、ちょうどよい期間です。一方で、仏教では「中道(ちゅうどう)」を大切にします。これは単に、「ちょうど真ん中」という意味ではありません。「ほどほどが良い」とか「ちょうどいい塩梅」でもありません。
「相即」つまり、「すべてを含んでいる」ということです。
お彼岸の期間は、夏でもなく冬でもない、どちらの要素も含んでいると考えます。これを、仏道修行に置き換えて考えてみます。
「善」と「悪」は、別々の人の心ではありません。私たちの心の中にどちらもあります。「仏」と「地獄」も、どこかよその場所にあるのではありません。善も悪も、仏も地獄も、すべて私たち一人ひとりの心に含まれているのです。
この意義を私たちは「丑寅の法門」といいます。それは地獄の心も仏の心も持ち合わせている私たちが、地獄の心を捨てたり、徐々に仏さまの心に近づくといった事をすることなく、この身のまま成仏を遂げることが出来ると教えられるからです。これを「即身成仏」といい、私たちはこの「丑寅」に成仏するのです。
丑寅とは、夜と朝の境目の時刻であり、夜でもあるし、朝でもある時間帯。仏はこの時刻に悟りを得るといわれています。
私たちの心に仏や地獄がある?
仏さまはそう言われています。なぜなら、仏さまの目的は、私たちみんなが持っている「仏の心=仏性」をきちんと発現させ、私たちを成仏させるためだからです。ですから、私たちは仏さまの境地に至るということは、決して「あの世に行って」というのではありません。今この身のまま仏に成るのです。だから「成仏」というのです。
どのような仏道修行をすればいいの?
「彼岸」の意義は仏道修行をして彼(か)の岸に至り、つまり仏さまの境涯に至ることです。では、仏さまの境涯とは?
それは、みんなを幸せにしたいと願い、行動することです。仏教的には、「利他行(りたぎょう)」といいます。自分ではない人の幸せを願う。これが仏道修行の本質です。ですから、本質を考えればお彼岸は別に先祖供養じゃなくて、他の仏道修行でもいいと言えばそうかもしれません。しかし、自分ではない人の幸せを願う、成仏を願う、最も分かりやすく、行動しやすい修行は、先祖供養ではないでしょうか?だって、ご先祖様が一人でもいなかったら、自分はこの世に生まれなかったわけですからね^^ですから、現在慣習として残っているのだと思います。

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